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2009年09月10日

沼津に東日本最古の古墳が!発見(^o^)丿

静岡県沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)の辻畑(つじばたけ)古墳。

沼津・辻畑古墳 国内最古級の可能性2009年9月7日

研究者『出土品から230年前後』

 沼津市教育委員会が発掘調査を進める前方後方墳「辻畑(つじばたけ)古墳」(同市東熊堂)が日本最古級の古墳となる可能性が浮上した。出土した高坏(たかつき)の年代から、230年前後の築造で、纒向(まきむく)石塚古墳(奈良県桜井市)などと並ぶ古さとの指摘がある。今秋に発掘を終える市教委は「副葬品などの詳細が分かった段階で識者の意見を集約して判断したい」との考えだ。

 辻畑古墳は国道1号沿いの住宅地にあり、市教委は昨年5月に本調査を開始。南北62メートルで、西側4分の1が道路で削り取られたため東西は35メートルとみられる。2つの四角形の墳丘のうち、北側の後方部が一回り大きく、高さ4・5メートルで墳頂の1メートル下に副葬品を伴う木棺(もっかん)跡があった。


 高坏は古墳回りの周濠(しゅうごう)の底近くから、割れた状態で出土した。ほぼ全部分あり、高さ20センチ。直径25センチの杯状の器に円すい形の脚部が付き、直径は器の約半分。脚部の上方に櫛(くし)で引いたような横じまが入るなど、「廻間(はさま)2(ローマ数字の2)式」と呼ばれる特徴を持つ。

 調査指導する愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎調査課長は、形状などから高坏は230年前後の製造と指摘する。土器片は原形が容易に分かるほど大きく、一カ所でまとまって見つかったことから「何かの意図を持ち人為的に割られた。古墳完成後の祭事に使われたと推測でき、土器の製造と同じころに古墳があったと考えられる」と説明する。

 築造年代を最もよく示す副葬品も今月2日から取り出し、鉄鏃(てつぞく)(鉄製の矢尻)や銅鏡などが見つかった。市文化財保護審議会委員の滝沢誠・静岡大人文学部教授(考古学)は「年代で形が変わる鉄鏃が重要」とした上、似た形の鉄鏃が3世紀半ば~後半(225~300年)の築造とされる弘法山古墳(長野県松本市)で出土例があるため「辻畑の鉄鏃が3世紀の早い時期に造られていてもおかしくない。詳細な検証が必要だが“赤塚説”を裏付ける可能性はある」と話した。

築造年代の結論は総合的に出すべき
 大塚初重・明治大名誉教授(考古学)の話 辻畑古墳では鏡を割って被葬者と埋める「破鏡」という風習が用いられたほか、出土した壺(つぼ)の中には軽石を含む材質の「大廓(おおくるわ)式土器」に分類できるものがあった。ともに3世紀代の特徴で、古墳も同時期に築造されたと言える。問題はその中でいつになるか。土器の年代特定は識者間で判断が割れることもある。古墳の築造年代は遺物全体や当時の日本の支配構造を踏まえ、結論を出すべきだ。




  


Posted by いすころりんこ at 16:07Comments(0)愛鷹山周辺遺跡群

2009年08月31日

2009年07月08日

2009年07月08日

富士宮市天母公園


















































































  
タグ :天母山


Posted by いすころりんこ at 20:32Comments(0)富士山周辺遺跡

2009年06月15日

富士山・山宮浅間神社

































  

Posted by いすころりんこ at 13:13Comments(0)富士山周辺遺跡

2009年03月23日

2009年01月05日

心機一転 新年で再出発~っ♪

新年明けましておめでとうございます。

旧年中は、拙ブログにご訪問いただき誠にありがとうございました。

しばらく、私事にて充電させていただきました。

ぼちぼち再始動させていただきます。


本年もどうぞ、宜しくお願いいたします。

ふじずらっこより
  
タグ :富士山


Posted by いすころりんこ at 10:35Comments(0)自己紹介

2008年12月11日

駿河へ大陸移民たちの分布(古墳時代~)

しぞーか人のルーツを探る旅にさあ出発いたしましょう♪

で、その前に全体像を鳥瞰図的に眺めて見ましょう。

※秦の始皇帝の密命を受け、渡来して安着した除福一族と中国系美男美女軍団!?

・・・・富士山に不老長寿の仙丹が有ると信じ登山を決行し、
    優秀な美男美女とともに富士吉田周辺にて定着定住した・・・

  ☆除福伝説の安着地として富士山周辺を中心に多彩に存在し、伊豆の植物分布、甲斐の絹織物などに
    渡来人の足跡が確認できる。

※高句麗滅亡後、亡命高句麗系と百済滅亡後の亡命移民団。同じ扶余族系で当時最高のエリート集団だった!?

・・・・滅亡しかけた百済王朝を再興するため、清水港にて、大規模造船と船団を組み、
    無謀に近い大規模参戦を唐と新羅の連合軍に対し挑んだ勇気と犠牲精神にあふれた先祖たちを讃えたい。

  ☆清水区を中心に百済滅亡前後に大量流入した、百済の皇族一族、技術者、宗教人たちの足跡
    百済系の寺・神社・地名・文化が存在する。

  ☆百済民族といっても、支配民族と一般市民は違っていたと言うのが定説らしい。
    北方モンゴル系の扶余族
    で慎み深く誠実(中国の史料にて・・)な民族といわれる。因みに高句麗も百済と同じ扶余族だったらしい。

★★慎み深く誠実とは現在の韓国の人々の性格よりは、日本人の古来からの美徳として、いつも言われてきた
性質と美徳にひじょうに近いと感じるのは小生だけだろうか・・・。

★高句麗・百済の支配民族の扶余族が両国の滅亡とともに海外、特に日本に大量移民したという説は、
非常に日本の勃興と密接な関係が有るといえる。

★当時の優秀な支配層の精神と技術が韓国に根ずくこと無く日本に根ついた。
高句麗と百済を継承しているのは日本では?・・・

※失われたユダヤの末裔が伝えた神道の原流!?

・・・失われたユダヤ12部族のひとつが極東に流れてきたという説は非常に信憑性があります。
   出雲大社の地下にはヘブル語の鏡が埋蔵されているそうです。
   モーセの杖・石版・聖杯などの足跡は古代古墳文化に残存しているそうです。
   ☆ユダヤ系(もしくは原始キリスト教)の文化・伝統・遺跡の発掘。

※高句麗などの扶余族の性質と技術の定着地が日本だ!?

・・・・遊牧・馬の飼育に長け・高い文化を誇った高句麗が滅亡した後の足跡の検討。
   金属加工にも非常に長けていたらしい。
   ☆韓国本国でもなぞの多い高句麗文化と移民の発掘。
   特に甲斐の武田家は高句麗移民の末裔らしい・・・。

つづく・・・・

ふじずらっこより。  


2008年12月09日

清水と百済再興への犠牲(白村江の戦い)。

白村江の戦いについて・・
実際、日本と百済連合軍の大敗にて歴史の中で、
消失しかけていますが・・・
ふじずらっこは、非常に重要な戦いだったと思います。

★白村江の戦い(はくそんこうのたたかい・はくすきのえのたたかい)★
  唐と新羅の連合軍によって滅亡した百済の再建と筑紫国の
  権益を守るために、筑紫国王は大和国からの援軍も加えて出兵するが、
  663年8月27・28日の白村江(朝鮮南西部の錦江河口付近の古名)での
  海戦で惨敗する。
  敗戦の主原因は大和国の唐・新羅への内応が十分に考えられる。
  (以上参考資料にて・・・ウェブより)

理由は・・
☆百済王族や中心者達の亡命移民が日本に大量にやって来た事。
☆当時最高の文化・技術・宗教が流れ込んだこと。
☆防人などの国家防衛政策が勃興して、後のサムライ文化の源流になった事。
  などなど・・・

地元の清水港の案内にても・・
・・〔・・・・7世紀、駿河国の豪族廬原君が斉明天皇の命により水軍を率いて
百済支援のため663年の白村江の戦いに参戦したところに始まる。・・・
出典: 清水港・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より〕
と説明されおります。
現在の熊本県からの大軍と合わせて・・約二万の軍勢だったみたいです。

で・・結果は、唐と新羅連合軍に大敗して、、殆ど犠牲になられた様です。

船で救援に行った事自体が凄い密接な交流が有ったことを実証しています。

以下は大阪府枚方
の百済からの渡来と亡命王子について・・・

百済寺跡、百済神社
『百済王(くだらのこにきし)物語』
 660年頃、難波津の港に白村江の戦いに敗れ、
日本に渡って来た百済王一族がいました。一足先に来ていた
百済王の第二王子(禅広)をたよりに亡命して来たのです。
 時は流れ四代目の(敬福きょうふく)の時代に東大寺の大仏に
大量の金が必要となった時、陸奥守だった敬福が900両もの金を贈りました。
その褒美で河内守になった敬福は枚方に難波津の一族を呼び寄せて住まわせ、
壮大な百済寺を建てたのです。
 百済王一族を特に優遇したのは桓武天皇で「百済王等は朕の外戚なり。」
と言って、行幸や遊猟などに何度も枚方を訪れました。
百済寺の中には桓武天皇が祭祀を行った場所もあったそうです。
 住居や倉庫と考えられる堀立柱建物跡や井戸が11棟以上見つかっているので
百済王一族の一大ニュータウンだったのかも。

『百済王氏について』
643年        百済の王子の豊璋と禅広が来日
660年        百済は新羅・唐の連合軍によって滅亡 
664年(天智3)   禅広が朝廷に仕え難波に居所を賜る
693年(持統7)   百済王の姓を賜り多数が五位以上となる
749年(天平21)  敬福が陸奥の黄金900両を大仏建造の為献上
750年(天平勝宝2)敬福が従三位宮内卿兼河内守に昇進
            これを契機に一族は交野郡中宮に移住
790年(延暦9)   桓武天皇が後宮を渡来系氏族にも解放
            「百済王等は朕の外戚なり」と詔を下す
797年(延暦16)  調・庸・雑徭(律令の主要な税負担)を免除
※光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇、仁明天皇の後宮に百済王氏の女子が
入りましたが、文徳天皇以降は藤原氏の権勢が増大し、
後宮は藤原氏一族が独占するようになりました。また、亡命後2世紀余りで百済王氏は
日本社会に完全に溶け込んだようです。

『百済寺跡について』
文献に初めて名前が見られるのは奈良時代末、長岡京遷都の直前に
桓武天皇が交野に行幸した783年(延暦2)10月16日の条です。
文献の上で最後に登場したのは817年(弘仁8)、ただし平安中期までは存続し、
一夜にして火災により消失したと思われます。
一般的には双塔式伽藍配置と呼ばれ、奈良の薬師寺にも似ていますが、
それより新羅・感恩寺に近いとも言われています。

『百済王神社について』
創立は737年(天平9)となっていますが、発掘調査では
室町以前の遺構は見つかっていません。
現在の本殿は1827年(文政10)に奈良春日大社の古社殿を
移築した物で保存状態が極めて良好です。
以上(小枝の部屋より抜粋させて頂きました。感謝。)

ふじずらっこでした。

  


Posted by いすころりんこ at 12:05Comments(0)清水地区と百済系移民

2008年12月07日

古代人居住地の条件とは?

古代人と古代帰化人の居住定着地の条件とは?

先ず第一は真水の有る小川や湧水のある地ですね。
 水田など用の耕作地が確保できる。
  年間を当して枯渇しない生活用水が真近に確保。

魚介類確保容易な入り江と砂浜が近い。波・津波・台風などから隠れる
天然の堤が有る事。

渡来人は船で移民してきたので台風の恐ろしさをよく知っているので
台風から守られる、丘山(里山)の中腹に居住しようとする。

温暖で台風などの大風から守られる地。

雪・なだれ・地すべり・洪水などの被害を受けない地。

外敵が攻め込んできても見晴らしが良く、守りやすい地。

故国を髣髴させ、帰国するにちょうど良い地。

以上を総合的に判断し、現在の静岡県とくに・・

この駿河湾の地に移民が大量に安着したという説は、

非常に説得力が有り、信憑性が高いと考察される。

特に、西伊豆の西浦の地は有名な洞窟住居跡が大量に有るが、
それを実証している。
温暖かつ豊富な魚介類・穏やかな入り江と海・豊かな湧水など・・
江浦横穴群地区などは
すべての条件を満たしている。

・・静岡県の遺跡集・・・

続く・・・

ふじずらっこより。



  


Posted by いすころりんこ at 10:19Comments(0)王朝伝説

2008年12月05日

富士王朝伝説

百済とはくだらないのくだらでしょうか?

よく言われますね。

百済から来た渡来人や文物などが全てだった時代。

それ以外はだめ!×という事でしょうか・・・

くだらない

 百済でない・・
 
  百済ない!

・・・・・まー・事の真意はさておいて・・

6年ほど前、一週間ほど韓国の全州(ジョゥンジュ)の南

ブアン(普安面 漢字が不確かですいません。)にてホームステイ致しました。

で、、その地に方々の顔かたちが

  全く日本人とおなじだったのには驚きました。

一般的に韓国の方の顔かたちに固定イメージが自分も有ったのですが・・

(鼻が少しカギ鼻っぽいとか・・眉と鼻が曲線でいっぽん線的・・など・・)

そんな事はまったく当てはまらない、日本人に見間違うそっくりな顔かたちでした。

そう!そうなんですっ♪

百済人(全州人)はそっくりそのまま日本人とおなじみたいです。

姉妹血縁証を交換いたしました。

 写真(御世話になった朴さんと)

って、そんなわけで、

かって気ままな、ふじずらっこの~っ

この古代史探検がはじまりました。

今後ともよろしくお願い致します。

ふじずらっこより。

一緒に行ったフランス人ローラさんと・・
おんどるなんで床に直に座ります。 けつイテー、でもあったか~。  


Posted by いすころりんこ at 10:49Comments(0)百済人と日本人

2008年12月03日

『ふじずらっこ』ブログ開設いたします。

ふじずらっことは・・・?

富士王朝も末裔のみなさん大集合!

古代史はホントに面白いですね。

富士市の地元を発信地に ぶっ飛ぶ古代史伝説を解明していきたいです。

富士王朝伝説・・・

  かぐや姫・・・
   
    秦から除福と美男美女3千人の最終定着地・・・(しぞーからしいですね・・。)

      高句麗・百済の王族の安着地?・・・

 神社・仏閣の由来・・・・・

富士山周辺に有る、みんなビックリの古代史伝説解明へっ♪

  ごーGOー


 今後とも宜しく御願い致します。

ふじずらっこより。  


Posted by いすころりんこ at 15:18Comments(1)自己紹介